阪神印刷株式会社の新兵器として送り込まれたJISキーボード使い(NetwingsJ)

どうも(・∀・)ノ 僕の時代は、PC-9801でしたねえ、Windowsマシンになってからも。そこで、NECのPC-9821があって、印刷会社のプリプレス室(当時は電算写植室)に、カバーがかけられて、埃をかぶっていたものを、興味半分で触ってみたと。そうしたら、3.5インチのFDD(フロッピーディスクドライブ)と、ある程度の内蔵ハードディスク。それに、写研用の変換ソフトと、8インチのFDDが備え付けられていて、これは使わない手はないなあと思いまして。なんせ無料で使い放題で置いてあると。ははーん、社長さん、今度は何か企んでるな、と感づいた僕でした。

当時の電算写植システムって、東京・大塚の写研(写植研究所)が作っていた、文字だけを入力するには非常に能率が良くないものでした。まあ、慣れれば簡単という意見もありましたけどね。「一寸の巾式キーボード」という、昔ながらの独特なシステムだったんですよ。もちろん、一寸の巾式キーボードなので、左手で部首を決めて、右側の漢字の集合体を押して、やっと1文字打てる、というものでした。僕もやりましたけど、とても胃が痛い。そして、頭痛がするキーボードでした。

一方、こちとら、1985年から、MSXや、NEC N5200や、キャノワードなどでJIS配列のキーボード操作一辺倒でしたので(しかも、ローマ字入力)最初は現場の係長さんや主任さんとよくケンカしていました(笑)「PC98とJIS→写研変換システムが折角あるのに、何で使わんのじゃ、時代外れだ」とようもめましてね。あれは神経遣いました。表立ってバトルはやらないものの、意地の張り合い、あるいは、神経戦ですねえ(笑)

  • JAGAT(日本印刷技術協会)/電算写植システムの開発(その1)

電算写植システムの開発(その1)

本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。 ■はじめに PAGE2007で、PAGE20周年を記念した特別セッション「コンピュータ組版の軌跡」が開催された。 1965年から株式会社写研で電算写植システムの開発にたずさわっていたことから、パネラーの一人として参加させていただいたが、電算写植システム開発当初からを振り返る良い機会であった。 今回は、1965年~1980年ごろまでの電算写植システムの開発について、トピックを拾い上げてみた。 ■1960年代前半の組版業界の状況 株式会社写研(当時は株式会社写真植字機研究所。以後写研)に、私が入社したのは1965年である。 当時の写研は、広告などいわゆる端物組版で使用されていた写真植字機を、書籍や雑誌などの本文組版へと使用分野を広げることをめざしていた。そのため、和文タイプライター程度の大きさの本文専用小型写真植字機「スピカ」を1963年10月に発表し、その量産を開始したところであった。 また、1960年10月に試作機を発表した全自動写植機「サプトン」は、1962年に数字専用の「SAPTON-F」を防衛庁に納入した後、新聞社向け「SAPTON-N」実用機の発表に向けた開発の最終段階を迎えていた。 当時の新聞業界では、1959年に共同通信社と加盟社が策定した統一文字コードCO-59(2,304字を6単位2列で符号化)を使用して、記事本文を配信・受信・組版するシステムが普及したところだった。 新聞各社は、共同通信社からの配信記事受信装置、受信した記事本文を6単位の紙テープに出力するさん孔機、紙テープの内容を印字する漢テレ(モニター)、紙テープを読み取って該当する活字を1字1字鋳造しながら並べる全自動活字鋳植機(モノタイプ又はキャスターともいう)を導入した。 また、自社取材原稿については、漢字さん孔機(キーボード)で紙テープを作成し、全自動活字鋳植機で組版する方法で活字組版工程の合理化を図っていた。 一般印刷業界では、端物組版には写真植字機を導入してはいたが、本文組版には活字を1字1字手拾いする活字組版が主流であった。大手の印刷会社では、活字組版工程の合理化のために全自動活字鋳植機を導入し始めたところだった。 ■テープ編集機の

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で、驚いたことに、その「写研 Saptoron-μ5」という、大きなタンス2つ分あるような、古い電算写植機の前で、主任なる人が、なぜか白衣を着て(笑)オペレートしていると。で、一寸の巾式キーボードは能率が良くないので、外部に2バイト4円で外注に出していたと。恐らく、奥様方が持っているワープロで打ったものを、JIS漢字コードに直したものを、3.5インチフロッピーディスクでもらって来て、それを8インチ、写研フォーマットに変換して、そのうすらでかい電算写植機にかけて文字列を印画紙に出力していたというわけなんですね。その文字列変換と、その上、現像・定着の手間がかかったと。暗室で、印画紙を酢酸や水に漬けて、みたいなことを平気でしていたと。

これを、内製化できないかと考えた僕は、まず、PC-9821の一太郎の外字部分に、写研の制御文字(文字サイズ何級(1級=0.25ミリ)とか、ゴシックと明朝だとか、そういうのの切り替え)が入れられることを発見し、一太郎の外字部分に覚えさせ、登録し、誰にでもわかりやすいようにしました。一寸の巾式キーボードは、あれはテレタイプ(紙テープ)の名残りなんですね。あれでいちいち紙テープに鑽孔していた名残りだというのです。

僕は呆れてね。今更、何をしとるんじゃと。いまは平成やぞと。そもそもが、8インチフロッピーディスクは無くなる運命にあるんじゃと。言うても聞かんもんやから、勝手にやり始めたというわけですよ。何度も自律神経失調症になって、県立尼崎病院の精神科(当時)に通ってね。診断書を受け取って心配した、総務部長の飯田さんが、何度も県立尼崎病院の精神科長大西さんところに訪ねに行きはって「本当に田所は大丈夫なのか?」「大丈夫です」という問答を繰り返しておられたそうです。

やがて、日本商工会議所(尼崎商工会議所)の中に、JISキーボードの操作を実証する「キータッチ2000」という資格があったので、それを受けてみました。打鍵が断然早いのは訓令式ローマ字だったのですが、日本語の読みに近いものは、ヘボン式ローマ字だったので、そっちで打鍵していたら、結構ミスタイプがありまして。10分間に2000文字以上打鍵出来たら、ゴールドカードがもらえたのですが、一応1回だけ受けてみて、10分間に1300文字でしたので、中の上ぐらいの打鍵速度だと。でも、これでも一応、一寸の巾式キーボードよりは格段に速いので、これを推し進めて行きました。

幸い、プログラマを養成する学校(千葉県立千葉工業高等学校・情報技術科)卒だったもので、その点はお手の物でした。漢字コードがどこでどうなっているのか、その基礎知識もありました。たとえ人より少し遅くても、文章の意味と送り仮名を同時に確かめつつ打鍵するくせがついていましたので(パソコン通信などで鍛えたことがあるので)FEP(かな漢字変換)頼みでもなく、かと言って、明らかに現代仮名遣いになっていない文章をどうするか、ということで、校正の牧さん(おじいさん)を困らせることが何度もありました。

ATOK(エイトック)田所vs元尼崎市役所戸籍住民課の牧さんという図式でね(笑)「原稿を守って、正しくない日本語を出荷するのか、それともここは原稿を尊重すべきなのか」という討論会を毎日のようにやっていました。牧さんは、広辞苑に角川の字源というフル装備。一方、こちらは、全国シェア当時ナンバーワンのかな漢字変換ソフトとのせめぎ合いでした(笑)今から思えば、牧さんの寿命を縮めてしまったかな? と後になって反省したのですが。

そのうち、日本語組版システムが完全リプレイス(置き換え)されまして、写研の入力マシンや電算写植機が淘汰されていく運命にありまして、SONYのNEWS(PC-UNIX)ワークステーションが2台、iMacが2台運用されることになり、晴れて「ようやくおれの時代が来た!」と思うようになりました。まず、従業員の女の子にPC-9821で、109キーボードの操作感に慣れてもらい、SONY NEWSワークステーションに行ってもらい、SMI-EDIAN PLUS(当時)に文字列を流し込んでもらう、そして、自分も時々ワークステーションで組版を実際に行うということをしていったわけです。

あ、思い出しました。その前に、阪神大震災の翌年に受けさせてもらった、JAGAT(じゃがっと)の「DTP職業訓練・2日間」で、神戸市内で、PageMakerとPhotoshop、Illustratorの訓練を受けさせてもらって(会社のカネで(笑))僕が主に、EDIAN PLUSの担当で、もう一人の中山がiMac担当になり(各々、自宅にPC-486PとiMacを持っていたため、順応の仕方が違ったんでしょうね)各人が、それぞれに女の子を含んだ一般社員に教えて行って、ということをした上で、僕は、栗本さん率いる「モトヤ・NEO AXIS」チーム(製版課扱い)に欠員補充ということで、写植課から飛ばされたというか、製版課に合流したというか、そんな流れになって行きました。

その後、社長さんが石黒さん(写植課の係長さん)に耳打ちしたところに依ると「石黒さんチームは非常に良くやっている」というお墨付きを得て、それなりの改善提案の成果が上がっていた様子でした。僕は? 僕は褒めてくれないの? 社長さん(笑)

やがて、Windows2000の登場ですよ。黒船上陸ですねえ(笑)これで、まず一般企業の誰しもが、Microsoft Wordで社内報や、簡単な名刺、ビジネス文書などを、レーザープリンターで思いのままに簡単に出力できるようになりました。印刷会社に任せるということは、CMYK4色の刷版(さっぱん)をセットでカラー刷り1ページのPS版(アルミ版)に起こす手間賃が当時およそ14万円していました。そこで、誰しも考えるわけです。「刷版に14万円かかるのであれば、これはもう自社でパソコンを買って来て印刷した方が、安くて速いわな?」という時代になって行き、回線速度はモデムで遅いけれど、取引先各社にインターネットも普及していく中で、阪神印刷株式会社は、やがて時代遅れになってしまいました。

あの、70年近い社歴を誇る、阪神印刷株式会社は、2000年の1月に希望退職者募集(僕もそれに該当していました)次いで、一般企業から預かっているフィルム、版下などをお返しする作業に製版課が頑張って行い(営業と同行で)2000年の2月末日で、阪神印刷株式会社は終わりを迎えたのでありました。

最後の方は、みんな、することがないので、毎日画面磨きとか、キーボード磨きとかを全員でしていた記憶があります。それで、失業手当300日をもらってから、ポリテクセンター兵庫・情報システムサービス科に4月からの半年間通うことになったのですよ。

いま、当時の石黒さんとほぼほぼ同い年になりつつある年齢です。(約50歳)今にして思えば「写研の電算写植機に対して、JISキーボード操作で無言で圧をかけて来る田所は、さぞかしやりにくい社員だったろうな」と、当時の係長、石黒さんの気持ちが分かるような年齢になって来ました(笑)

というまあ、オジンの昔ばなしでした。令和になった今では、Windows 11に、日本hpのパーソナルコンピューター、そしてブログ入力やMicrosoft 365 Wordなどでこれを打鍵しています。日本語が上手で済みません。プログラミング言語(アプリを作るアプリ)が下手くそで申し訳ございません。そして、日本語の乱文乱筆どうも済みません。

ではでは(・∀・)ノ

パソコンのお医者さん 元電算写植オペレーター ネットウイングス 代表 田所憲雄 拝

ネットウイングス

兵庫県尼崎市のネットウイングスは、個人で2002年から始めた、日本のユースウェアにかかわる団体でして、パソコンに関する対個人に向けた、パソコンのユーザービリティを高めるための活動をしています。

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